イタリアでのパネットーネの発酵事情
イタリアでは、パンなどを発酵させる種を、リエヴィト・マードレlievito madre、かつてはリエヴィト・アチドlievito acido(英語のサワードウに相当)と呼び、現在ではリエヴィト・ナトゥラーレlievito naturaleという呼び方も一般的になってきています。しかし、リエヴィト・マードレ(ナトゥラーレ)を定義する法律は存在しません。
いわゆるリエヴィトとは法律で、サッカロミセスセレビシアSaccharomyces cerevisiae(出芽酵母)株によって形成されるものと定義され、練り生地に加えると炭酸ガスを発生させる性質を備えています。
イタリアで一般的にパンなどの発酵に使われるビール酵母と言われるものも、リエヴィト・マードレも同じ現象を発生させるものですが、ビール酵母は大量の炭酸ガスを発生させるだけなのに対し、リエヴィト・マードレは、生地にボリュームを与えると同時に、生地の柔らかさを保つ働きも持っています。パネットーネにリエヴィト・マードレを使うのは、生地の柔らかさを保つことがその理由の一つでもあるのです。
イタリアにおけるパネットーネは、法律によってその性質が定められているため、アルティジャナーレartigianale(職人による手作り)でもインダストリアルでも、内容はほぼ同じです。しかし、柔らかさとその保存性という点では大きな違いが見られます。アルティジャナーレでは、良質なリエヴィト・マードレを使うことによって、その乳酸菌が大量のポリサッカライド(糖脂質、リポ多糖)を生成し、生地に微細なゼラチン質をもたらす。これが水分を保持し、パネットーネを長期間柔らかく保つ働きをします。ちなみに同様の現象が見られるのがヨーグルトです。一方、インタストリアルのパネットーネは、アルティジャナーレのそれよりもさらに長期間の保存が可能なものが多いのですが、それを可能にしているのは、リエヴィト・マードレに加え、一般的に乳化剤を使用しているからです。材料表記を“綺麗に”見せるためには避けたいものであり、さらにはオーガニック製品であれば使用できない添加物ですが、乳化剤を使わなければパネットーネは原則として一ヶ月以上その柔らかさを維持できません。ちなみに、どうしても乳化剤を表記したくない場合は、表記義務のない酵素など他の添加物を使う場合もあります。
継ぎ足しを重ね、100年以上生きているリエヴィト・マードレも存在しますが、その中は常に変化をし続けていると言われます。リエヴィト・マードレについては様々な研究がなされているにもかかわらず、その内部のマイクロフローラの状態を安定させることは難しく、たとえ、病院の手術室のような無菌処置をした空間で、同じ袋の粉を使って継いだとしても、リエヴィト・マードレの中の微生物は常に変化してしまうのです。これは主に、粉がその原因だとされています。実際に同じ袋の粉を使って、20度に設定された中で56日間に三度異なる作業を分子に行ったところ、全く別のものに変化してしまったという結果が出ています。一般に、リエヴィト・マードレ用の粉として販売されているのは、微生物フローラが一定している粉という意味ではなく、一定の働きを保持している粉、という意味であり、微生物を一定に保つものではありません。それゆえ、リエヴィト・マードレを扱う人は、常に、温度、時間、粉、水を微細に調節し、ボリュームの増え方、酢酸の匂い、乳酸の味をチェックし続けなければならないのです。
もう一つ、パネットーネの発酵についてよく語られるのが、生地に現れる気泡について。しばしば、アルヴェオラトゥーラAlveolatura(蜂の巣状の気泡)と呼ばれる、縦長の気泡については、その形が長く不規則なものが良いという人もいれば、小さく均等の方が良いという人もいます。
この気泡のでき方には多くの要素が関わっています。その一つは、発酵前の生地を丸める作業で、この時に生地を潰すと生地の中の空気がどんどん分かれていきます。潰せば潰すほど気泡は増え、細かくなっていくのです。この代表的なものが食パンで、ごく細かい気泡を得るため何度も練る、実際の工程では何度もロールに通します。一方、パネットーネは細かな気泡は必要ないので、練りの作業はごく軽く、一度にまとめ上げるイメージ。多くの人がよりボリュームを得るために二度練りしたほうが良いと考えますが、パネットーネ作りでは不要なのです。それよりも、ふんわりとした生地にするには、強い粉(w350以上)を使い、リエヴィト・マードレの酢酸と乳酸の正しいバランスを図ることが重要です。丸い気泡が見られる場合は、乳酸が過剰に発生している可能性があり、酢酸の匂いが強い場合は、一晩寝かせることで解消できます。
パネットーネ作りとは、パン作りの基本と応用が組み合わさった、言うなれば製パンの最も進化した世界といっても過言ではありません。